山頭火 浅間をゆく

 

ゆうぜんとして生きてゆけるか

しょうようとして死ねるか

どうじゃ、どうじゃ

山に聞け、水が語るだらう

 

浅間をゆく旅日記のなかで、山頭火はこう自問自答する。また、「生の執着があるやうに、死の誘惑もある。生きたいといふ欲求に死にたいといふ希望が代わることもあろう」「歩々生死、一歩一歩が生であり死である、生死を超越しなければならない」とも記している。

山頭火にとって旅とは、いかなるものであったのか。

 分け入っても分け入っても青い山

と詠んだ大正十五年四月、解くすべもない惑いを背負って行乞流転の旅にでたとある。

 幾山川を越えた行乞の後、昭和十年八月末、佐久の関口江畔・父草あてに「とうとう卒倒しましたよ」とハガキが届く。実は卒倒なのではなく、八月六日にカルモチンを大量に服用、山頭火は自殺未遂を起こしていた。

同年十二月六日、山頭火は死に場所を求めて東へと向かった。「いよいよ最後の旅にでかけてきました。ぶらりと御地方へ向かいます。春になったらお目にかかることができましょう」と江畔に便りが着く。

 翌昭和十一年四月、山頭火は荻原井泉水が主催し、自らが選者を務める俳句結社「層雲」の中央大会に赴いて東京にいた。そして五月五日、鯉のぼりがおどる甲州路を歩き、五月九日、清里から一面の落葉松林が続く信州野辺山へと入った。小海からは汽車で岩村田へ、鼻顔稲荷上の夢相庵では、かねてより来訪を待ち望んでいた層雲同人、関口江畔、父草親子が歓待した。

 山頭火の浅間の旅は、山頭火旅日記により詳細がわかるが、その旅程はおおよそ次のようになる。

 

五月 九日 清里から野辺山に入り、小海から汽車に乗って岩村田下車。念願の関口江畔・父草との対面を果たす。父草が山頭火を按摩。江畔宅泊。

五月一〇日 「炎の会」句会。稔郎・粋花・如風・寒淵らが集まる。鼻顔稲荷【はなずらいなり】で記念撮影。江畔宅泊。

五月十一日 軽井沢にゆく。追分の分かされを過ぎ、芭蕉句碑を見る。軽井沢駅前泊。

五月十二日 碓氷峠を越え、一日山中彷徨。ようやくたどり着いた上州横川の牛馬宿泊。

五月十三日 安中を通過。巡査に尋問される。伊豆・野辺山で会ったルンペン氏と再会。高崎泊。

五月十四日 松井田から汽車で信州に引き返し、御代田下車。平原の甘利稔郎宅泊。

五月十五日 小川でふんどしを洗う。稔郎宅泊。

五月十六日 横根の胡桃沢粋花居を訪ねる。江畔宅泊。

五月十七日 稔郎・粋花と江畔居で終日閑談。江畔宅泊。

五月十八日 江畔と閼伽流山【あかるさん】登山。「かっこう」の句を作る。汽車で小諸へゆき、夕方懐古園逍遥。藤村の「千曲川旅情の歌」、牧水の歌碑などをみ、千曲川を眺めて句作。鎌田屋泊。

五月十九日 小諸で朝から居酒屋情調を味わう。終日ごろごろする。中棚温泉泊。

五月二〇日 千曲川沿いに川辺村を歩き、中佐郡で芭蕉句碑、相生の松を見て岩村田へ。江畔宅泊。

五月二一日 朝、あるたけの酒を振舞われ、江畔に見送られて発つ。御代田駅から沓掛まで汽車、そこから浅間根越しに六里ヶ原を歩き草津へ、草津泊。

 

浅間の空の下で

  五月九日。山頭火が江畔居を訪れたその晩は、しとしとと雨が降っていた。父草は、山頭火の旅の疲れをもみほぐしてやりながら、ぽつぽつと語り合ったという。

 翌日は、浅間山麓の層雲同人が結成した「炎の会」の句会。鼻顔稲荷での記念撮影では「炎の会」の人々の中央に黒い法衣姿、五十四歳の山頭火が収まっている。年よりは若くみえ、こころなしか清々しい顔である。

     若竹のなやみのないお顔で筆揮われる 如風

 「炎の会」の佐藤如風は山頭火の表情をこう詠んだが、孤独を滲ませた山頭火の行乞にあって、五月の浅間路の旅はどこか明るく、かっこうの鳴き声とともに安堵の息が漏れるものであった。関口家には、

     空に若竹のなやみなし

 の短冊が残される。如風も同じ句を受けとったのか。短冊の礼として、路銀が渡されることも通例であった。

    ガソリンをつぎこんでいくらでもかくと 寒

 酒を注ぎ込みながら、いくらでも揮毫すると調子に乗った山頭火を詠んだ、荻原寒淵の句もある。

 

   「おお浅間! 初めて観るが懐かしい姿」

山頭火は日記に浅間との対話をこのように記す。

山頭火が残した浅間十句を拾っておく。

   

   こんなに蕎麦がうまい浅間のふもとにゐる

   浅間をまへにまいにち畑打つてふてふ

    浅間ははっきりとぶてふてふ

    浅間朝からあざやかな雲雀の唄です

    浅間をまえにおべんとうは青草の

    浅間は千曲はゆうべはそぞろ寒い風

    浅間をむかうに深い水を汲みあげる 

    浅間に脚を投げだして虱をとる

    浅間したしいあしたでゆうべで

    そこで浅間を見上げては握飯

 

五月十一日、山頭火は軽井沢へ。翌十二日は、碓氷峠へと分け入る。山中、道を間違えて彷徨、すべったりころんだり近來になく苦しんだが、それだけ句も拾った。

    一人となれば分け入る山のかっこう

    遠くなり近くなる水音のひとり

    道がわからなくなり啼く鳥歩く鳥

 

 そしてようやく横川泊。安中では巡査に不審尋問を受けたが、自分の句の載っていた『中央公論』誌をみせてようやく疑いを解かれた。思えばこの年は「二・二六事件」が起きるなど、日本は不穏な時代を迎えようとしていた。また、世界恐慌のあおりで日本はかってない不況であった。上州ではよいことがなかったのか、山頭火は汽車で信州へと引き返し、平原に甘利稔郎を訪ねる。

 

酒と水と蕎麦と

 山頭火は、行乞流転の旅を続ける中で、己の性を問い、自戒を繰り返した。

しかしその自戒は、酒に起因するところも少なくなかった。

 「憂鬱たへがたくなった。アルコールでごまかすより外なかった。私は卑怯者だ、ぐうたらだ」「やっぱり酒だ、酒より外に私を慰安してくれるものはない」こうつぶやいて杯を重ねた。アルコールへの依存、また自殺を試みたことからすれば欝状態に陥ることもしばしばあったかと思われる。

 また山頭火は、自分も述べるように、わがままできまぐれでもあったことは否めない。

 「私はまた我がまま気ままな性癖を発揮して、汽車で小諸へ向った。明後日また引き返して来るつもりで」

 世話になった佐久の関口家をふいに後にして、明後日また世話になるという。まことに身勝手ではあるが、句友達はそれを静かに受け入れた。

 

山頭火の師、荻原井泉水は昭和十五年末の「層雲」山頭火追悼号の中で、

     「山頭火は一生を放浪に暮らした。死の前までも放浪的な気持ちから逃げられなかった。酒をもって失敗した。しかし山頭火は好く人に愛された。

  かれのわがままがそのまま、一つの性格として、人に容れられた。ずいぶんと人に迷惑をかけたこともあったらしいが、それですら甘受された。だが彼の句はわがままから生まれ句ではなくて、むしろそのわがままに対する自嘲や反省から生まれたものと見るべきところに、彼の句が魂のうめきとして力をもつものである」

と述べているが、井泉水がいうほど山頭火は単純ではなかったかに思える。いずれにせよ、句を嗜む人ばかりでなく、多くの人おも魅了するのは、山頭火の生への苦悩であろう。また、放浪という行為は、社会生活に束縛された今の私たちにとって憧憬に近いものなのかもしれない。

 山頭火を語る上で、水は欠かせないが、幾分かは「酔いざめの水」的な欲求が合ったことも否定できない。

 

      水音けふもひとり旅ゆく

   へうへうとして水を味わふ

   風かおるしなののくにの水のよろしさ

   

そして浅間路にあって山頭火は、蕎麦を味わった。

 「手打ち蕎麦―いわゆる浅間蕎麦―その味はなんともいえない。一茶が“おらが蕎麦”と自慢したしただけのことはある」と日記に記す。

江畔宅でも浅間蕎麦を振る舞われた。

 

   こんなに蕎麦がうまい浅間のふもとにいる

   ゆうべいそがしい音は打ってくださる蕎麦で

   

懐古園逍遥、そして旅立ち 

  

平原の稔郎居から再び江畔居に戻った山頭火は、江畔とともに五月十八日、閼伽流山に遊んだ。

    あるけばかっこうあるけばかっこう

と句を詠み、後半を「いそげば」に改めている。

 その日の夕方、山頭火は小諸懐古園に向かった。懐古園からは、眼下に千曲を眺め、藤村を偲び、牧水を想う。

   

浅間は千曲はゆふべはそぞろ寒い風

ゆふかぜさわがしく私も旅人

その石垣の草の青さも (牧水をおもう)

 

 小諸にて二泊、ふたたび引き返して五月二十日江畔居に。最後の一夜ということでみんなしみじみと語った。

 翌日は快晴。カッコウがしきりに鳴く中、山頭火は江畔に見送られて旅立った。

 御代田を過ぎ、沓掛から浅間根越しに六里ヶ原を通った山頭火は、草津、万座にて泊。さらに万座峠から山田温泉、須坂に入り、ようやく長野の風間北光居を訪れる。

長野では善光寺詣、柏原では一茶の旧跡を、さらに越後に良寛の遺跡を訪ね、山頭火は遠くみちのくの空を旅する。山形、仙台、平泉など「奥の細道」をめぐる。

 興味深いことに、浅間路での明るさとはうってかわって、みちのくでは憔悴した山頭火の姿があった。仙台で山頭火は、病の床に伏しながらも句作を続ける海藤抱壷を訪れたが、そのときは浴衣一枚の情けない身なりであった。抱壷は、凛とした法衣姿の山頭火を想い描いていたけに、ずいぶんと残念だったらしい。

 山頭火は江畔あての書簡に、病床の抱壷に崩れゆく心身の自分がむしろ励まされ、省みて恥じないではいられない。もう引き返さざるを得ないとし、旅費を無心する。

 この旅はみちのくが終着となって、帰路永平寺に立ち寄り、山口の其中庵へと山頭火は帰ってゆく。           

浅間縄文ミュージアム『山頭火浅間をゆく』展より

 

浅間縄文ミュージアム 秋季企画展

山頭火浅間をゆく

2004年10月2日―11月23日

大人300円 (200円) 子供200円(100円) ( )内は20名以上

午前9:30−午後4:30まで

休館日:10月4・12・18・25日 11月1・4・8・15日

 

長野県北佐久郡御代田町大字馬瀬口1901−1

EL:0267−32−8922  FAX:0267−32−8923

 

Eメール:jomon@mx2.avis.ne.jp

URL:http://w2.avis.ne.jp/~jomon/index.html

 

●JR長野新幹線 軽井沢駅乗換え しなの鉄道御代田駅から徒歩7分

●上信越自動車道佐久インターチェンジより車で10分